時代を超えて、愛され続ける理由。
メルコ3533  <糸ドライブプレーヤー> モノ語り

メルコ 3533 モノ語り 2/谷野 大輔

人間の生活時間を軽く超越するような材質と機能、開発者の途方もない情熱を感じます。

出会いはどんな感じでしたか?

私は 1974 年生まれで、メルコが誕生する 1 年前にこの世に生まれました。
所有者は父親で、1979 年には手元にあったそうです。
ちょうどこの頃、親父はジャズ喫茶を営む準備を重ねていた頃であり、3533 はその店に設置する予定で入手したと聞きます。
ジャズを聴かせてお金をいただくのだから、相応の「装置」でもてなす。
というのが矜持でしたから、入手するにはさぞ無理をしたのではないかと思います。
ジャズ喫茶としては最後発の翌 80 年にオープンし、体調を崩して閉店するまでの 6 年間、お客さんの耳を楽しませていました。
見た目にもインパクトのある形状でしたから、ジャズを聴かせる店のアイコンとしては申し分なかった様です。
その時私は 5 歳か 6 歳でしたが、お友達の家のレコードプレーヤーとの違いに戸惑ったのをハッキリ覚えています。
砲金製のターンテーブルを磨くための「ピカール金属磨き」という言葉を覚えたのもこの頃です。
モリブデングリスという言葉も、ラジコンをいじるようになる前には知っていましたし、理科の宿題で懐中電灯を作る際、キットに入っていたエナメル配線を全てヨリ線に交換。これを配線座金に直接半田付け、反射板までアルミ箔を貼りつけて改造。スイッチには接点グリスを塗りつけて提出し、職員室に呼び出されたのも、変わった親父とその仲間、そして 3533 との生活があってのことと思っています。

3533にお持ちの印象は?

5 歳の頃には既に身近でしたから、かれこれ 36 年くらい一緒に過ごしていることになります。
そうしたものが他にあるのかと思い返してみても、他には思い浮かびません。スピーカーやアンプは何度も変わりましたけど、3533 は常に同じ場所をキープしていました。
砲金製ターンテーブルの重さに由来する「移動のしにくさ」ということもあるのでしょうけど、長い年月でも「性能が変わらない」もしくは「性能の低下が極めて緩慢」ということが良いのであろうと感じています。
「回ること」だけをとことん追求してあるので、やっぱり今日も回っている。
そんな印象です。
回転の為の軸受けには、人間の生活時間を軽く超越するような材質と機能を奢られている訳ですから、開発者の途方も無い情熱を感じます。
あと、やはり印象的なのは糸ドライブという独特の機構でしょうか。
ウチのカフェではアイドラードライブという方式を使っています。バラしてみるとターンテーブルの内側の部分に、ゴムのタイヤを押しつけて駆動する形式です。パワフルだと思いますけど、曲間の絶対的な静寂というのは、糸ドライブにはかなわないなぁと思います。

エピソードはありますか?

我が家に於いては、仏壇と親父のオーディオは「触れてはいけないもの」の筆頭でした。ですから、今でも電源を入れる際は「崇高な儀式」のようなイメージを持ちます。これは幼少期に親父からすり込まれたもので、多分今後もその印象は消えないと思います。

スピーカーの接続から遠い順番に電源を入れて、アンプ類を温め、3533 の回転数が落ち着くまでにレコードを選ぶ。そうした一連の動作は背伸びをしたい少年にはうってつけであり、電源を入れることが許された日というのは、思い出深い日でした。すなわち、私にとって「大人になれたのだ」という喜ばしい印象を与えてくれたのは 3533 だったということになります。

あるとき親父の目を盗んで手でクルクルと回して遊んだことがありますけど、「軸が歪むんだっ!」って大目玉喰らったのを覚えています。
子供相手に笑えますよね、よっぽど焦ったに違いありません。
そうして一緒に時間を重ねて来ましたが、近頃は親父の可聴域が変わったせいか、高音が聴き取りづらいのでしょうね。聞こえないから上の音域を誇張してセッティングしているようです。自分が良ければそれが一番良い訳ですし、それに近づけられるというのも面白い事だと思います。年齢と共に感じ方は変わる。でも音楽が好きであることは変わらないのだなと感じています。

オーディオの楽しみとは?

私は譲り受けたものばかりなので、自分でチョイスしてシステムを組み上げた訳ではありません。ただ、70 年代末から 80 年代にかけての、音源再生にかける親父と仲間達の熱の高さを、子供心に興味深く眺めていました。もう、それは今では考えられない位に熱かったのです。
配線一つ、置き方一つ、当然コンセントの向き一つでも音が変わる。そんな事を閉店後に仲間達と試行錯誤する風景というのは、私にとっては大きな疑問でした。ただ、皆がとても楽しそうであるということはよく理解できました。
ユーザーにまだ介入する余地が残されていたというのも良かったのでしょうね。定休日前夜には、何かしらの機器がひっくり返って、裏蓋が開けられ、半田ゴテのヤニの香りが立ちこめていましたから。
少し変わった親父を持ちましたし、周囲には常に面白い大人達が集っていましたから、私の同世代とは共有出来ない世代観を持っていると思います。子供の私が見たあの日々の事は、その後の価値基準に大きな影響を与えていると思いますし、今も私がカフェを営んでいるということは、日々どこかに「あの時代の残り香」を感じたいと思っているからなのだと思います。

音楽はいつしか手軽なものになりました。恩恵は計り知れないと思うと同時に、少し寂しくもあるのです。それは、あんまり手軽過ぎるのも感動が薄まってしまうと感じるからです。 アナログな再生システムはいちいち面倒だからこそ、いとおしくもあり、腹も立つのですが、たかだか一曲の為に傾ける情熱と散財というのは、あっても良いのではないかと思います。周囲を説得できれば(笑)

少し話しがズレますが、私にとってのオートバイの感動というのは、初めて乗ったその日が一番大きくて。
あの「何処まででも行けそうなワクワク感」をもう一度味わいたいと願い続けています。ただ、やはりあの日のみずみずしさは戻って来ない。
そこへいくと、毎朝電源を入れるだけで緊張し、針を落とす時にワクワクし、無事に音が出て胸をなで下ろす。という感覚が変わらないのは、オーディオの楽しみなのでは無いかと思うのです。

デザイン事務所と喫茶。フォノン豊橋本店へお邪魔して。

私は学生時代に芸術系の学校で作品を作っていたのですけど、卒業に際して色々考えました。
イマイチ自分は信用できないけど、よその大人を信じるならば、自分を信じてみるのも良いのではないかと、突然カフェを始めました。もちろん手作りで、小さな店の内装工事だけなのに半年以上もかかりました。
カフェに集う人々から仲間を得て、ついでにお仕事をいただき、本業のデザインへ結びつけていきました。
今は客席に立つことはあまり無いのですけど、やはり今もカフェは続けています。

美術もデザインも、視覚にまつわる商売であるから、本来ならば光を意味する「フォトン」と名付けるべきなのでしょうけど、店名は音を意味する「フォノン」。これは音に対しての憧れから付けました。
私は美術作品を作って人の心を揺さぶりたいと思ったのですけど、私にはとても難しかったです。
失恋したときに聞きたい曲っていうのは思い浮かんでも、見たい美術作品なんてのはなかなか思い浮かばない。そうしたときに音楽って羨ましいなと思ったのです。目に見えない空気の振動が心を動かすのですから。

本当はそうして音楽を聴く店なんですけどね、お客には色々都合もありますから、特に強制はしませんけどね(笑)
うちの店はレジの後ろが「真空管」というガラスの電球みたいなものが立ち並んだアンプで埋まっています。大昔はテレビやラジオにも入っていて身近だったそうですが、今はあまり目にする機会がありませんよね。私も物心ついた時にはとっくに無かったですから。不穏な実験機器のようでもありますけど、人によっては珈琲を湧かす「サイフォン」に見えるらしく、そのギャップに驚いたことがあります。サイフォンもアンプもある意味ではソフトの良さを引き出す抽出装置ですから、案外この一言は深かったりもするのですが・・・。

大切にしていることは何ですか?

“ジャズ喫茶「ベイシー」の選択”っていう本がありまして、岩手県一関にその店は本当にあって、音響機材や鳴らし方、聴き方に至るまで、その情熱は凄いものがあります。あれを読むととても敵わないなと思います。だって命を賭けてますからね。

じゃあ音楽ソースの知識は・・・というと、通天閣の澤野さん(澤野工房)にはそりゃもう敵わないなと思う訳です。
本業は老舗の下駄屋さんなんですけどね、ジャズ好きが高じて自分でレーベルまで作っちゃった。

そんな人達を見ていると、トコトン突き進んでいるので真似できない(笑)
だからウチはもう少し柔らかく、様々な要素のバランスといいますか、「状態」や「状況」のようなことを売りにしてみたいなぁと思ったのです。例えば、こんな曲がかかってて、それはこんな音でもって、で、温かい珈琲が用意されていて、インテリアはこうで~みたいな。そんな状態作り。これがカフェだったんですよね。フォノンは一曲を聴く為の装置というか・・。

ボロいスピーカーも無理に綺麗にせず、経てきた時間の経過に手を加えたりしません。これがウチらしいと思っています。新しいジャズも、ゴリゴリの古いジャズも。ごちゃ混ぜでかけていますけど、それらをピタリ融合させる。
いや、融合しているような状態に持って行く。それが私の役目なんだと思います。

客席では、今日も女の子達が楽しそうにおしゃべりしています。お爺ちゃん達も会合している。だれも音楽を意識していませんけど、ふと会話が途切れたときに耳にする音楽ってのは、気が利いてる方が良いじゃないですか。
そうして一日のうちに少しでいいから、音楽に耳を傾ける時間てのがあっても良いと思うのです。手を止めて、目に見えない空気の振動に身を委ねるというか、そういうささやかな事を味わえる店っていうのが理想です。
大切なことっていうのは、案外と近くに転がっているものだと思うのですよ。