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@PROFESSIONAL USERS クリエーターインタビューby LAVA  
30 映像編集でパソコンが威力を発揮、そこには高信頼のメモリがありました
本人写真
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田中誠 映画監督

田中誠(たなかまこと)

1960年生まれ。東京、浅草育ち。成城大学文芸学部芸術学科在学中の1983年、ヤングジャンプ映像コンテストに優勝したことをきっかけに,卒業と同時にフリーの映像ディレクターとなる。鈴木清順監督作品「ピストルオペラ」(2001)のプロデュースに関わることで映画界へ。「タナカヒロシのすべて」(2005)で脚本・監督デビュー。同年、同作品が中国の金鶏百花映画祭に招待作品として選ばれる。2005年、菊地秀行の人気伝奇ミステリーを原作とした「雨の町」(2006)が劇場公開。最新作は船越英一郎主演「おばちゃんチップス」(2007年1月27日より全国公開)。

「おばちゃんチップス」公式サイト
http://www.obachan-chips.com/

――映画監督という、本当にごくわずかな人でしかなれないお仕事についたその興味深い経緯を教えていただけますか?

まず母親が映画好きだったという事が大きいです。チャップリンの映画が特に好きでしたね。それで父親が8mmカメラを買ったんですが、それを使って小学生の頃は寸劇を自分で撮影したりして。

――小学生でですか?

そうです。小、中、高と僕は完全なる文科系の子供でしたね。それで大学時代は映画クラブ。当時は放送局のディレクターとかディスクジョッキーなんかを目指していました。それでTV局、広告、映画関係等の会社に面接に行きましたが、全て落ちるんです。それでもうフリーです(笑)。

インタビュー画像2

実はLAVA氏が生まれ育った世田谷にある実家の本当に目と鼻の先にある田中さんの自宅兼仕事場。5年前に建てたそうで、映画監督らしいモダンで素敵なお家でした。仕事場も雰囲気があって居心地も良さそうです。


――いきなりフリーになって何をしたんですか?

末端から始めましたが、やった事ないのにいきなりアイドルビデオ撮ったり。でも当時は隙間産業的だったんで、なんか出来ちゃうんです。ビデオマガジンのストーリーものなんかも作っていました。でもそれだけでは食べていけないので、雑誌のライターもやっていました。学研が発行していた「MOMOCO」なんていう雑誌もやっていたので、学研内の他のフロアーに行っては別の雑誌の仕事をとっていましたよ。アイドル雑誌の「BOMB」や超能力ものの「ムー」という雑誌で書いたりしていましたが、それはとにかく当時は出来る限りの文科系の仕事は全部やってみたって感じです。イベントのディレクターもしました。演劇部にいた頃の知識を使ってポンキッキのイベントを手掛けたり、カルカン主催の猫のイベントとか。学生時代の映画クラブで得た8mmビデオの知識でアイドルもののビデオ撮って、演劇部でのちょっとの経験でイベントのディレクション。とにかく僕は完全にはやれないと分かってても挑戦しましたね。それがなんとかなっちゃう。30歳まではそんな感じで、この仕事を延々と続けていきました。

インタビュー画像1

田中さんお気に入りのインテルCPUを採用したiMac最新型。ここにバッファローのメモリA2/N667-1Gが2枚ささっています。やはり作業は一段と早くなったと喜んでいました。

――田中さんを見ているとなんかこっちも勇気がわいてきますよ。それでその後は?

30過ぎからTVの世界に移りました。またこれもTVをやる技術なんか僕にはなかったんですけどね(笑)。当時は衛星放送が始まった時期で、WOWOWの番組も手掛けていました。毎週、毎週、きちっと作っていく番組だったので、この頃からプロとしてのフリーランス的な仕事を自分はしているなと感じ出しました。鼻をきかせて、悩まずちゅうちょせずやっていく感じ。それからTVのディレクターとして仕事がどんどん始まっていきます。93年にはテレビ東京の「モグラネグラ」を担当しました。

――あ、それ見てました。

そうですか。これ深夜の生放送だったんですけど、もちろん生放送のディレクターなんかやるのは初めてでしたし、当時のプロデューサーはよく自分を採用したと思いますよ。初めてやる当日「この番組は今夜、めちゃくちゃになるに違いない」と確信していたんですが、テクニカルディレクターが放送後「田中さんみたいな人がやってくれて良かったよー」って。なんか不思議でしたね(笑)。


――それで映画界にはどうやって入っていったんですか?

38歳までTVの仕事をしていたんですが、映画にチャレンジせずに人生を終わらせたくないという気持ちが強くて。酒を飲んでは「映画をやりたい」と言っていましたし、大学時代だって映画専門。それで38歳でTVの仕事を全てきっぱり辞めました。

――全部辞めですか?

はい。でも半分くらいはTVの仕事が嫌いになっていたっていうのもありましたし、あとTVって体力勝負の部分もあるんですよ。40代に入ったら若い奴らに仕事をとられるんじゃないかっていう恐怖も正直ありました。

――でもそうやって自身をちゃんとディレクション出来る人ってこの業界では少ないと思うんですよね。田中さんはおそらくTVの世界にいられたとも思うんですけど、それをちゃんと自分を見つめて結論を出している。それでいて次のステップに進もうとしている。僕はそこが尊敬出来ますね。

ありがとうございます。そう、それで映画に入っていけたキッカケなんですけど、最近日本映画の調子がいいなんていう話しを聞いた事ありますよね。それってまずアメリカ映画がつまらなくなってきたっていうのもあるんですけど、基本的には海外の映画の値段が高くなってきたんです。海外の映画を買ってビジネスをしていた人達がそれを買えなくなってきて、資金がダブついて余ってきたので「ならば日本映画を撮ろう」という話しになってきたんです。簡単に言えば冒険しようという出資者が増えてきたんです。僕の場合はそういうタイミングがいつも上手く出来ていて、これがちょっとでもタイミングがずれたら僕は映画を撮れなかったかもしれませんね。

 

インタビュー画像3

最近手掛けたというGAZZLE(ガズル)の「風花」という曲のミュージックビデオの編集画面。ここでもバッファローのメモリが役立っています。


――田中監督の記念すべきデビュー作「タナカヒロシのすべて」はどうやって出来上がっていったんですか?

僕の大学の先輩が映画のプロデューサーになったという話を聞いたんです。長い事会っていなかったんですが、僕も映画を撮ろうと決めていたので彼に会いにいきました。その時、彼は鈴木清順監督の「ピストルオペラ」に携わっていて、僕は運良くプロデューサーのアシスタントになれたんですが、本当は「ピストルオペラ」のメイキングのフィルムを撮りたかったんですよ、監督の技術も盗めますし。でもメイキングは先を越されてしまっていたんですね。ちょっと話がずれますが、この頃から日本映画界は「脱フィルム」をスローガンにハイビジョン化が進んでいたんです。僕は95年の時点で、これからはコンピュータの時代だろうって思って、お金を払って機材をそろえていまして、それこそボードの組み立てからやったので知識はついていました。そこで先輩が「これからはハイビジョン」って話をしだした時に僕にはそこそこついていけるノウハウが既にあったんです。フリーランスは「備えあれば憂いなし」ですからね。これって上手いタイミングには見えますが、自分の基盤作りは絶えずやっていましたからね。映像をやっていくにはコンピュータが必要って思い単純に勉強しただけなんですけどね。「ピストルオペラ」のプロデューサーのアシスタントになれたのも、未来に対するビジョンが僕にあったからだとも思ってます。

インタビュー画像4

現在全国公開中の田中監督による3作目「おばちゃんチップス」の撮影風景。監督の真剣なディレクションの様子がうかがえますね。

――とてもよく分かります。今の話はこれから何かを始めたい若者達に聞かせてあげたいです。

なかなか「タナカヒロシのすべて」にたどり着けずにすみません(笑)。それでその先輩が映画の製作会社を作って、僕は40歳にして初めて正社員としてそこに入社したんです。コンピュータの技術が詳しいという事で紀里谷和明監督の「CASSHERN(キャシャーン)」にもアソシエイト・プロデューサーとして携わりました。先輩は僕をプロデューサーとして今後も起用していきたいと思っていたんですが、僕には映画監督への道がどんどん広がってきている感触を得ていました。そして前からあたためていた「タナカヒロシのすべて」の脚本をNHKサンダンスに応募したところ4次審査まで残ったんです。でも最後の3人で落ちちゃって「これが俺の人生かな」って思ってたんですけど、「ピストルオペラ」のプロデューサーや役者さん達がその脚本を読んでとても気に入ってくれて、その流れで小椋事務所という映画製作会社がスポンサーを集めてきてくれたんです。


――遂に来ましたね。

はい。でもクランクインの1ヶ月前に何とスポンサーが全部は決まってなくて。

――えー!

でも小椋プロデューサーが「それでもやる。駄目でも俺が払う」って言ってくれて。夢じゃないかと思いましたよ。ほっぺつねりました(笑)。それで42歳にして監督デビューが決まったんです。大変だったのはそこまでです。「タナカヒロシのすべて」に関してはもう僕の頭の中でビジョンが出来上がってましたからね。撮影中ってスタッフから数限りなく質問が来るんですが、僕は全てを把握していましたから、何の問題もなく撮影は行われました。キャストに関しても名前のある人達が集まってくれました。「シナリオが面白いから」って事だけでどんどん人が集まりました。もう役の取り合いみたいな状況で。でも僕は思うんですよ。日本映画って暗く悲しいものが多いでしょ。僕の母も僕も大好きだったチャップリンのような映画が今必要だと思うんです。悲しくても笑える作品がね。

――本当に僕にも今日の話は勉強になりました。さてパソコンの話になりますが、監督がお使いのバッファローのメモリA2/N667-1G(1GB)についてと、仕事でのパソコンの活躍度を教えて下さい。

パソコンは主にビデオ編集とシナリオ書きに使っています。映画の場合はプロのエディターがいますので、僕のほうではDVに落として自宅で仮編集までをやっています。「タナカヒロシのすべて」ではエディターが僕と同じMacだったので、そのやりとりは楽でしたね。ミュージックビデオを最近撮りましたが、ここでもパソコンがやはり威力を発揮しました。以前は高価なアナログキャプチャボードを買って、ハイエンドなマシンでしか出来なかったビデオ編集が、今では僕が仕事で使用しているiMac一台で出来てしまうんですよね。特にインテルCPUを採用したiMacでネイティブなアプリであるFinalCutStudioを使うと、今までより数倍操作性があがるというので買い換えを決めたんですよ。同時にメモリも新しいiMacに合わせて別のものになったので、これを機にバッファローのメモリを使ってみました。名ばかりの日本製電気製品が多い昨今、単に日本製であるというだけでは信頼度は以前ほどありませんが、バッファローのメモリは国内生産で保証が6年もあるので安心ですね。

 

インタビュー画像5

ふたりで田中監督の自宅で記念撮影。映画好きなLAVA氏は田中さんの情熱ある話に終始夢中でした。


――なるほど。では最後にこれから映画監督を目指す人達にメッセージをお願いします。

映画を撮る事とは何かに対する解釈を示す事。観察と分析が大切。そして普通の人々が考えている事の一歩先を行く事。そして自分なりのオピニオン(意見)を絶対的に持つ事。助監督のままで終わるか、監督になるかはこの辺で決定的に変わってくると思います。

――今日は本当にどうもありがとうございました。


料理写真

 

クリエイターの好きな料理“この一品!”
「波乗りジョニー」(三和豆友食品株式会社):
沖縄県糸満沖海水苦汁&北海道大豆の豆腐。田中監督曰く「最近大人気のお豆腐。きめの細やかさ、舌触り、最高!」との事です。

インタビューの様子もご覧下さい。
Quick Time Player
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DDR2 667MHz SDRAM(PC2-5300)200Pin S.O.DIMM  A2/N667シリーズ 製品写真
高性能パソコンの機能を引き出す、高速メモリ規格 JEDEC規格準拠。データレート667MHz対応で最大5.3GB/sの高速転送を実現したDDR-200pin S.O.DIMM規格のメモリモジュールです。バッファローのメモリモジュールは信頼の証の「 6 年間保証」。安心してご利用いただけます。

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